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「ぼくの伯父さん」全国上映!

ぼくの伯父さん/ふたりで

ジャック・タチの「ぼくの伯父さん」が全国39カ所でスクリーン上映されます! 

これはイオンシネマが選定した一定数の名作を、
系列の有志映画館が一定期間にわたり順繰りに上映するという
《シネフィル・セレクション》に同作がセレクトされたからで、
「ぼくの伯父さん」はこの10月14日より小樽・天童から佐賀までの全国20館、
11月11日より米沢・石巻から福岡までの全国19館でスタート! 

ある監督に焦点をあてた回顧上映というくくりではなくあくまで「単品」で、
しかも破格の低料金(このシリーズは1000円ポッキリ!)で
過去の名作が劇場で観られるという上映方式は、
昔むかしにはよくあった「リバイバル上映」とか
「名画座」がどこか思い出されるありようで、
イオンシネマさんのこの企画は大いに歓迎したいですね。

ぼくの伯父さん/アルペル邸

地方都市の映画館は
監督レトロスペクティヴまではとても手がまわらないものでしょうが、
この「名画座パック」式プログラムなら
たくさんの映画不遇民(かくいう私も上京まではそうでした)も
銀幕で名作が観られますからね。

最近の「戦争のはらわた」「追想」の劇場リバイバルなど、
デジタル上映環境の機動力を最大限に生かした過去作のこまかい再公開動向は、
今後もゼヒ拡大していってほしいものです。

(追記)
これは加入者向け限定の情報ながら、イマジカBS改めシネフィルWOWOWでは、
改組後の新企画《世界の巨匠》シリーズ第一弾として
この10月はジャック・タチ作品を4作、放映中です。

ぼくの伯父さん/二人乗り

※冒頭の広告掲載を防ぐため、投稿日を変更することがあります。


ユジク阿佐ヶ谷で「ジャック・タチ映画特集」ほか

ユジク阿佐ヶ谷『ジャック・タチ映画特集』

セミが鳴き始める季節になりました。
関東もそろそろ梅雨明けしそうですね。
そして、やっぱり夏はジャック・タチ!
久しぶりに上映情報を3本、お知らせいたします。

ユジク阿佐ヶ谷『ジャック・タチ映画特集』2

☆ユジク阿佐ヶ谷/7月30日(土)~8月5日(金)
 『ジャック・タチ映画特集』

 フランスを代表する映画監督であり、ミュージックホール出身の喜劇役者ジャック・タチ。
 彼の魅力がたっぷり詰まった、監督作4作品と、
 タチの脚本から生まれた「イリュージョニスト」を
 まとめてお楽しみいただける1週間。(詳細は→コチラ

〈上映スケジュール〉
「ぼくの伯父さん」
 7/30(土)・8/1(月)・8/3(水)・8/5(金)13:50-
「トラフィック」
 7/30(土)・8/1(月)・8/3(水)・8/5(金)16:10-
「パラード」
 7/31(日)・8/2(火)・8/4(木)13:50-
「プレイタイム」
 7/31(日)・8/2(火)・8/4(木)15:40-
「イリュージョニスト」
 7/30(土)〜8/5(金)12:10-
〈会場〉 
 ユジク阿佐ヶ谷
 東京都杉並区阿佐ヶ谷北2−12−19−B1F TEL 03-5327-3725
〈料金〉
「ぼくの伯父さん」「トラフィック」「パラード」「プレイタイム」
 一般1,300円 シニア・学生1,100円 会員1,000円
「イリュージョニスト」
 一般1,200円 シニア・学生1,000円 会員800円
※3本でお得な3回券(3,000円)を当日受付窓口にて販売


☆恵比寿ガーデンプレイス《ピクニックシネマ》8月6日(土)19:30
 『のんき大将 脱線の巻』


 人工芝が敷かれたセンター広場で映画を上映する「ピクニックシネマ」
 移動映画館「キノ・イグルー」を主宰する有坂塁さんが
 「のんびり、笑う」をコンセプトに作品を選出。
 タチの「のんき大将 脱線の巻」ほか、楽しい作品がいっぱい。

〈上映スケジュール〉 ※各日19:30より上映
 8/ 5(金)「シェフ 三つ星フードトラック始めました」
 8/ 6(土)「のんき大将 脱線の巻」
 8/ 7(日)「ナビィの恋」
 8/12(金)「ムーンライズ・キングダム」
 8/13(土)「Mr.ビーン カンヌで大迷惑?!」
 8/14(日)「コープスブライド」
 8/19(金)「それでも恋するバルセロナ」
 8/20(土)「海賊じいちゃんの贈りもの」
 8/21(日)「僕らのミライへ逆回転」
〈会場〉
 恵比寿ガーデンプレイス センター広場
〈料金〉
 無料(荒天の場合は中止になる場合があります)

飯田橋ギンレイ《午前0時のフィルム映写会》

☆飯田橋ギンレイ《午前0時のフィルム映写会〜ジャック・タチ特集》
 9月30日(金)・10月1日(土)23:00-5:00(予定)


 飯田橋ギンレイホールのオールナイト企画。
 伯父さんモノ2本とプレイタイムの3本立てです。
 ご案内もレトロな味わいで素敵ですね♪

〈上映作品〉
「ぼくの伯父さんの休暇」
「ぼくの伯父さん」
「プレイタイム」
〈会場〉 
 飯田橋ギンレイホール
 〒162-0825 東京都新宿区神楽坂2-19 TEL 03-3269-3852
〈料金〉
 未定。9/9(金)より前売り発売スタート

PS
「ジャック・タチ映画の人名録」は折りを見て、再開させていただきます。

ジャック・タチ映画の人名録13 クロード・オータン=ララ

タチ人名録13クロード・オータン=ララ1

連載第13回 客演のご縁は?(クロード・オータン=ララ)

この連載の趣旨はジャック・タチが作った映画に関わったキャストand/orスタッフを紹介することにあるわけですが、今回は理由あって、タチが「関わった」映画についての話題となります。便宜的にタイトルとして掲げた人物について語る項目ではないことを、あらかじめお断わりしておきます。

~クロード・オータン=ララ~
(Claude Autant-Lara/1901-2000)

タチが他人の映画に出たのは生涯わずかに二本、『乙女の星』(1946年)と『肉体の悪魔』(1947年)だけです。監督はいずれもクロード・オータン=ララで、『肉体の悪魔』のほうはオータン=ララにとっても代表作といえるでしょう。

しかしタチは何故オータン=ララのような、作風がおよそ異なる人物の映画に(だけ)出演したのか、考えてみると不思議ではないでしょうか。

タチの評伝作家の一人デイヴィッド・ベロスによると経緯はこうです。

ドイツ占領下の時代すなわち1940年代はじめ、『天井桟敷の人々』の製作準備に追われていたマルセル・カルネ監督は、この映画の主役ジャン=ルイ・バローにある危惧を抱いていました。というのもバローは当時コメディ・フランセーズと契約していたため、舞台に時間を取られて撮影に専念できないのではないか、と恐れていたのです。

その頃、南仏ニース(非占領地域)で活動していたカルネが上京し、たまたまABC劇場(パリの老舗ミュージックホール)に寄ったところ一人の芸人に目が留まりました。その芸人の観察眼の鋭さとエスプリに驚くとともに、ほっそりとした長身やその風貌が、古い写真の伝えるドビュロー(『天井桟敷の人々』の主人公バティストのモデル)の肖像に、ジャン=ルイ・バローより似ている。しかも好都合なことに、その芸人もドビュローと同じパントマイマーでした。

――言うまでもなくカルネが目撃した舞台芸とは「スポーツの印象」、演者はジャック・タチです。カルネは将来必要かも知れない選択肢の一つに主役交代を忍びこませます。

ただしこの時代のタチは大衆的には無名の舞台芸人で(いうなれば「浅草時代の○○○」)、監督もプロデューサーのフレッド・オランもこの交代は「リスクが大きすぎる」という点で意見が一致していました。とはいえこの際の議論はフレッド・オランの記憶の片隅にしっかりと刻まれ、同じく自身が製作をつとめた『乙女の星』で「口を開かないでも銀幕で存在感を示せる」(=マイムで幽霊を演じられる)役者が必要になったオランはタチに連絡を入れニースの撮影所に呼びよせた……

タチ人名録13クロード・オータン=ララ2

タチ人名録13クロード・オータン=ララ3
*ドビュロー(上)、『天井桟敷の人々』でのジャン=ルイ・バロー(下)

もう一人の評伝作家ジャン=フィリップ・ゲランの説は、若干ニュアンスが異なります。

『乙女の星』でタチが演じた幽霊は、本来ジェラール・フィリップに配役されていた。ところが、この若手(当時)が事情により降板したため、製作陣は急遽代役を探しはじめた。ここでタチをクロード・オータン=ララに推薦したのは本作の脚本家であり「タチの友人でもあった」ジャン・オーランシュであるというのです。オーランシュとタチがどの程度親しかったのかは不明ですが、この『禁じられた遊び』の脚本家とタチとの間にルネ・クレマンを置いてみれば、ぼんやりとながらも線は一応つながります(クレマンは戦前からのタチの技術的協力者でした)。

もっとも、このときの代役には候補が何人か挙がったようで、くだんのジャン=ルイ・バロー氏もそこに入っていたそうです。主演女優のオデット・ジョワイユー曰く、
「わたしは所作と諷刺が結びついたタチの芸をミュージックホールで見て感嘆したものでしたが、将来のユロ氏がいくら笑わせて(しかも、考えさせて)くれたからといって、乙女を夢見させることが可能とは到底思えなかったわ」

タチ人名録13クロード・オータン=ララ4
*『乙女の星』日本版ポスター

『乙女の星』にジャック・タチを抜擢したのがフレッド・オランなのかジャン・オーランシュなのかという疑問は、よくよく考えると説の違いではなく、渾然たる状況のほぐし方の問題のようにも読み解けます。直接証言のあり方からみれば、『天井桟敷の人々』とジャック・タチに一寸ながら接点があったこと、オデット・ジョワイユーが『乙女の星』でのタチ起用に不安を覚えていたことは、少なくとも事実のようです。

タチ人名録13クロード・オータン=ララ5
*日本版『乙女の星』DVDジャケット(2016年4月発売予定)

さてジャック・タチがうら若き乙女を結果的に「夢見させる」ことができたか否かは、鑑賞者各人の判断に委ねられるべき問題でしょうが、この点において極めて嬉しいことに、戦後1949年に劇場公開された以外、日本ではビデオもDVDも出たことがなかったこの『乙女の星』がようやく発売されるとのことです。

最初に売り出されるのは『珠玉のフランス映画名作選』というBOXもので、これはこれで内容/分量的に間違いなくお買い得です。ただ、もう少しだけ待つと単品でも発売される模様で、ジャック・タチの演者としての才能を、じっくりと見極めることがこれで可能となる次第です(下記をクリックすると一部鑑賞可能)。



(佐々木秀一/執筆)

ジャック・タチ映画の人名録12 ダキ②

タチ人名録12ダキ1

連載第12回 名優、家族の肖像(ダキ ②最後の里親)

ジャック・タチは若き日、名門レーシング・クラブ(ラシン・クラブ)のラグビー・チームに所属していました。練習や試合が終わるとメンバーは宴会に繰り出し、その余興のなかでタチの芸は磨かれていった。当時のチームリーダーはのちにフランス人口統計学の泰斗となるアルフレッド・ソヴィー、配下にはタチ以外にも破格の人物が大勢いました――という評伝的事実を今回はマクラにしたうえで・・・

~ダキ~
(Daki/生没年不詳)

『ぼくの伯父さん』に登場したあの愛らしいワンちゃんたちは、その後どうなったのでしょう? タチは集めてきたワンちゃんを動物愛護協会へUターンさせるのではなく、ここでもやはりフィガロ紙に3行広告を出したそうです。

「犬小屋とエサ求む/近々撮影任務より解放される/将来の映画スターたち」。

クランクアップ直後にひっそりとこういう措置をとったことに、ジャック・タチの文句なしのセンスと、良いほうの人柄が偲ばれますね。もし公開したあとだったら、時の話題になってワンちゃんたちには鬱陶しい大騒ぎが起こっていたことでしょう。それでも多数の応募が寄せられ、全員に新しい里親がついたとのこと(めでたし)。

タチ人名録12ダキ2

さて、肝心のダキ君ですが、実は彼のご主人ボラー・ミネヴィッチは『ぼくの伯父さん』の撮影開始と前後して急死してしまいます(「前後」と言うのは、没年に1955年説と56年説があるからです)。状況や時期から見て、ダキはこの間ジャック・タチ家に居候(あるいは撮影スタッフの一時預かり)になった可能性は充分にあるものの、正式な継主はきっちり見つかっていました。

そのあるじとはジャック・ブロイド(1908-1987)。モスクワに生まれたユダヤ系ロシア人で、幼くして母親と徒歩でスイスに亡命、ジュネーヴで育ちスイス国籍を取得、入社した時計メーカーの販売代理人としてパリに滞在中《レーシング・クラブ》に入り、タチとチームメイトになります。

ブロイドはタチとウマが合ったらしく、チームの夜の余興ではタチとしては貴重な(あるいは生涯「唯一の」?)コンビによる対話演目のパートナーをつとめたり、1936年の短編映画『左側に気をつけろ』では、チャンピオンに伸されるスパーリングパートナの一人を演じたりしています。ただしこのあたりまではブロイドにとっての「前史」にあたり、ほんとうの開花はその少しあとにやってきます。

タチ人名録12ダキ3

タチ人名録12ダキ4
*ジャック・ブロイド(『左側に気をつけろ』より)

戦雲垂れこめるこの時期、ブロイドは映画ファンにはおなじみのパテ社に職を得ます。といっても映画製作ではなく撮影機材の製造部門。ブロイドはスイスの時計会社での研修を除けばこれといった工学教育は受けていなかったのですが、エンジニアとしての天賦の才があったのでしょう、パテ社の研究所でめきめきと頭角をあらわします。

終戦直後の1946年にはハンディカメラWEBO(16㎜/9.5㎜)を開発、この製品は大成功を収め、1980年代初頭まで同じ機種の生産が続けられるロングセラー商品となりました。ブロイドは以降、ジョワンヴィルにあるパテ社の工場のトップ、同社の重役へと登りつめていきます。

ブロイドは亡くなるまでに実に750もの特許技術の開発に携わり、その大半が21世紀になってからも活用されているといいますから、驚くべき技術屋です。

さてこのブロイド一家は、『ぼくの伯父さん』が公開された1958年にフランスを離れ、スイスに帰国します。当然、家族の一員としてダキ君もジュネーヴへの旅程を共にしました。

以降、われらがダキ君はスイスで恵まれた余生を送り、その直系の子孫が現在なお「ブロイド家」で幸せに暮らしているということです。

タチ人名録12ダキ5

前回書き落としたのですが、ダキの最初の里親ボラー・ミネヴィッチは、ブロイドと同様ユダヤ系で、彼らがウクライナからアメリカへと、あるいはモスクワからスイスへと、幼くして移住を余儀なくされた背景には、明らかに歴史的事実としての「ポグロム」の影がうかがえ、なかなか考えさせられます。

ダキ君はブルジョワ家庭からブルジョワ家庭へとトレードされたとも言えるし、ジャック・タチもロシア貴族の末裔であることを考え合わせれば、次々とロシア系人士によりバトンタッチされたとも言えるでしょう。

「なるほど、君は漂泊ロシア家系のダックスフントなのだね?」と問うなら、ダキ氏は「ウウウーイー」と肯定してくれることでしょう。


(佐々木秀一/執筆)




ジャック・タチ映画の人名録11 ダキ①

タチ人名録11ダキ1

連載第11回 名優、家族の肖像(ダキ ①最初の里親)

あえてドラマを構成しようとしないシナリオや、その特異なキャスティング術からいって、ジャック・タチの作品に映画祭の演技賞ものの名演が存在しないのは当然でしょう。ただしアカデミー助演賞にも匹敵しそうな、かの唯一の例外的熱演を除いては――

~ダキ~
(Daki/生没年不詳)

映画『ぼくの伯父さん』に登場するあの愛らしいワンちゃんたちを、タチはいったいどうやって集めたのでしょう? 

答えはというと、大部分の犬は動物愛護協会の保護施設から「スカウト」してきたそうです。片っぱしから20軒ほどまわったそうですから例によって念の入った行動ですが、考えてみればあの映画に登場する犬たちはほとんどが野良という設定ですから、見るからに毛並みの良さそうなブルジョワ犬は相応しくないわけです。

ただし例外もいて、フィガロ紙に出された「雑種犬求む/映画撮影用/口を開け苦笑する犬」という3行広告に応募して雇われたのが、サンモール広場の露店の脚元でカマスと張りあって歯を剥く「あの」ワンちゃんだったとのことです(ピエール・エテックスの証言)。

タチ人名録11ダキ2

さて、ドッグパートの主役であるダックスフント犬ダキですが、彼はもちろん野良犬ではなく飼い犬、それもかなり変わった人物の愛犬でした。

その人物とはボラー・ミネヴィッチ。1902年にウクライナで生まれ、幼くして米国へ移住、戦前は一流のハーモニカ奏者としてコミックバンド《ハーモニカ・ラスカルズ》を率いミュージックホールや映画で大活躍、1947年にフランスに居を移してからは活動領域も表舞台から裏方へと移し、映画への投資・配給、ナイトクラブの経営などに携わりました。

しかしミネヴィッチの生涯が特異なのは、半音も出せるクロマチック・ハーモニカ用の技術を開発し、ドイツの楽器メーカー《ホーナー社》にパテントを売却したことにより、20歳そこそこにして百万長者になった点です。ミネヴィッチは『のんき大将』をアメリカに配給するなどジャック・タチとはきわめて懇意で、羽振りの良いミネヴィッチと新進の映画作家は悪童めいたやんちゃな遊びに興じていたと伝えられます。

タチの作品で喩えるなら『イリュージョニスト』に大勢出てくる落ちぶれた芸人ではなく、『プレイタイム』のアメリカ人大立者シュルツ氏(ビリー・カーンズ)みたいな存在ということになるでしょうか。

何でもミネヴィッチは、自分の名前を「フランチャイズ」制にして、ハーモニカ奏者を「加盟」させる(=複数の《ボラー・ミネヴィッチ》を存在させる)というアイディアを考案し、タチの郵便配達人にもこのやり方を勧めたそうです。せっかく一山当てたというのに、海のものとも山のものともつかない「ユロ氏」なんぞにかまけるのはリスキーだと思っていたようです。ある種の「成功者」とはこういう発想をするものなのですねえ。

タチ人名録11ダキ3
*ミネヴィッチのアルバム

というわけでダキ君は、アルペル氏などよりもっとお金を持っていそうな、もっともっと開放的な成金の家に生まれた(?)わけです。

さて、ダキをはじめとした『ぼくの伯父さん』の名脇役ワンちゃんたちが、撮影後どうなったかは次回に述べます。

それにしても、以下の動画に見るジャック・タチの振り付け、これ神業ですね。

タチ人名録11ダキ4
天才はいかにして犬を演出するのか?(クリック⇒広告⇒本編8秒後から注目)

(佐々木秀一/執筆)


◎トピックス追記

IMAGICAサイトのインタビュー記事に『プレイタイム』のデジタル修復について言及があります(取材:木村ひろみさん/翻訳:山下泰司さん)。非常に興味深いので、ぜひご一読を。それにしても考えさせられるのは、ジャック・タチは生前の晩年は不運だったものの、死後のあゆみは幸運な人なのだなあということです。


ジャック・タチ映画の人名録10 フランク・バルセリーニ

タチ人名録10フランク・バルセリーニ1
*フランク・バルセリーニ(珍しいフォト!)

連載第10回 奇跡の代打(フランク・バルセリーニ)

前回、ジャック・タチの商業的イメージを定着させた功労者はピエール・エテックスだと指摘しましたが、話をヴィジュアルから音楽に置き換えるなら、第一の貢献者はまず間違いなくフランク・バルセリーニということになるでしょう。

彼の作曲した『ぼくの伯父さん』のテーマ曲は単に特定の映画のBGMという枠を超えて、ある種の雰囲気を醸成するのに必須な効果音楽となった趣きすらあります。

昭和33年の公開当時、はや日本では中島潤、高英男、木村正昭がカバーした……というのは知ってましたが、最近、のみならずあの「沢たまき」さんまでカバーシングルを発売していた事実を知り、びっくりしました。

ただエテックスとバルセリーニのキャリアを比較すると様相がだいぶ異なり、今回はそのあたりの事情から「タチ学」を深めてみましょう。

~フランク・バルセリーニ~
(Franck Barcellini/1920-2012)

リヨンに生まれたバルセリーニが亡くなったのはごく近年で、幾つかの追悼記事がフランスのサイトに載り、どうにも調べがつかなかったプロフィールが少しは分かってきました。それら記事や追加リサーチによりバルセリーニのキャリアをまとめてみると――

①『ぼくの伯父さん』以外で音楽を全面的に担当した映画は3本(コメディやエロチックムービー)。いずれも『伯父さん』の後。また舞台音楽にも幾らかタッチした模様。

②ミッシェル・トールやジョルジェット・ルメールといった中堅シャンソン歌手に楽曲を提供。ただしヒット曲の記載はなし。

追悼記事のタイトルはいずれも《『ぼくの伯父さん』の作曲者死す》といった調子で、purepeople.comは "méconnu, mais connu"(メコニュ、メ、コニュ)などという駄洒落のような形容でバルセリーニを説明しています。つまり「よく知られた曲を作った知られざる作曲家」というわけです。

ありていに言って『ぼくの伯父さん』以外はパッとした実績のない、いわば「一発屋」と言いたいのでしょうが、こういう人物とタチにどういう経緯で接触が生じたかを探っていくうちに、面白い事実が浮かび上がってきました。

タチ人名録10フランク・バルセリーニ2
*フォンタナ・シネモンド版OST(ボリス・ヴィアンがプロデュース)

実は当初『ぼくの伯父さん』の音楽を担当するはずだったのはノルベール・グランズベール(1910-2001)、「パダン・パダン」や「グラン・ブルヴァール」等のスタンダードナンバーを手がけたシャンソン界では有名な作曲家です。すでに戦前から映画音楽にも手を染めていたのでキャリアからいえばバルセリーニとは格が違います。

グランズベールは撮影中ラッシュを見てテーマ曲の原型を書き、それを奏したところジャック・タチも気に入り、その曲を口ずさみながら撮影を続けたという局面までは良かったのですが、あるきっかけから両者は訣別に至ります。

どうやらその曲は、フランソワーズ・アルヌール主演の映画『肉体の怒り』(1954年/音楽はグランズベール)ですでに使用された形跡があると発覚したからです。事実調査に派遣されたのは(例によって)エテックスでしたが、実際に映画を見てみると、似たような数小節が縁日のシーンのざわめきに紛れてかすかに聞こえてきたそうです。

試作めいたスコアのコマ切れ使用だったのでしょうが、オレの映画に二番煎じの曲とは何ごとかとばかりにタチは激怒し、作曲家はクビになります。

この事件の余波は2つの方向へと及びます。

タチ人名録10フランク・バルセリーニ3
*中島潤版カバーシングル(細野晴臣さんが初めて買ってもらったことで有名なレコード)

まず、ショックから立ち直った作曲家は、ただでは起き上がりませんでした。

『肉体の怒り』から『ぼくの伯父さん』へと練ってきた旋律を完成させ、『伯父さん』公開と同じ1958年に発表して大ヒット、これが有名な「私の回転木馬」(歌はエディット・ピアフ)だったのです。

もしかしたらあの曲が『ぼくの伯父さん』のテーマソングになっていたかも知れないと考えると、微妙な気持ちになります。

いまひとつは後任の音楽担当者問題で、スタッフはグランズベールの後釜として某人物を引っぱってきたものの、タチは音楽面とは関係ないある点でこの男がお歯に合わず、またしても解雇。ここで抜擢されたのがバルセリーニだったという経緯のようです。

つまりバルセリーニは代打のさらに代打で、しかも前作で実績のあるアラン・ロマンと抱き合わせでの起用ですから「補助輪」付きみたいなものです。これで当時のバルセリーニの業界的立場は容易に想像がつきますね。

タチ人名録10フランク・バルセリーニ4
2015年秋現在、新品が入手可能な日本版CD

2014年のジャック・タチ映画祭はタチの全作品を一気に鑑賞できたがゆえに、個人的には様々な発見がありました。うち音楽面では、前半の3作(のんき大将休暇、伯父さん)のテーマ曲が極めてキャッチーであるのに対し、後半の3作(プレイタイムトラフィックパラード)の劇伴は一曲単位の目立ち方は若干見劣りするものの、総体的な曲のレベルは先行作のよりはるかに高度だという印象を受けました。

アラン・ロマンやバルセリーニには申し訳ないのですが、フランシス・ルマルクやシャルル・デュモンはさすがにシャンソン界の大御所だけあって……という感想を抱いたわけですが、こんなふうに考えはじめた自分がだんだん後ろめたくなってきたのも事実です。

大御所だとか、キャリアだとか、粒ぞろいとか、何だかどこぞの音楽評論家みたいな物言いは、タチフィルにはあるまじき小ざかしさと感じたのです。問題はその曲がどれほど熱く記憶に残るかではないか、つまりは「愛」じゃないか、と。

代打の代打が放った一発は、フェンスを超えスタジアムを超え、国境を超える美しい大ホームランとなりました。なぜならジャック・タチその人のテーマソングを一曲選べといわれたら、おそらく9割方のファンはバルセリーニによる『ぼくの伯父さん』のテーマソングを選ぶはずだからです。


(佐々木秀一/執筆)

ジャック・タチ映画の人名録9 ピエール・エテックス④

タチ人名録9ピエール・エテックス1

連載第9回 タチの一番弟子(ピエール・エテックス ④永別篇)

ジャック・タチを語るうえで「伯父さん」「お洒落」「キュート」といったキーワードは外せません。タチの没後、1980年代から90年代にかけて、本国フランスではなかば忘れられていたタチの映画が日本で声望を保ち得たのは、これらイメージの押し出しが効を奏したからでしょう。先人たちの戦略と努力には衷心からの敬意を表します。ただ…

~ピエール・エテックス~
(Pierre Étaix/1928-)

ただ、作品全体をよく眺めてみると分かるのですが、タチの映画には「伯父さん、お洒落、キュート」なパーツは確かに点在していますが遍在しているわけではありません。

これは余談ながら、意外なことに「お洒落」という形容詞はフランス語のタチ文献を読んでいてもほとんど目にした記憶がない(日本人にそう見えるところはフランス人にはむしろ「保守的」と映る、というフシがあります)。ただし、かくいう筆者もこれら(↓)については無条件に「伯父さん、お洒落、キュート」であると同意します。

タチ人名録9ピエール・エテックス2

タチ人名録9ピエール・エテックス3
*エテックスによるポスター(下の『休暇』は1961年再公開時の新規ポスター)

つまり「お洒落でキュート」という形容は、タチの作品そのものというより、むしろピエール・エテックスのポスターにこそ相応しいと思われるのです(為念:タチの作品はもっと広くて豊かだ、という意味です)。ポスター作家エテックスが、富嶽三十六景を思わせる大胆かつシンプルな構図で拡大してみせたジャック・タチのポップな側面は、北斎の国の民には親しみをもって受け入れられたし、フランス人にもエキゾチックでお洒落なものと見えたかも知れません。

『プレイタイム』公開時のフランスでは、この作品がつまらないのはエテックスというギャグ作家をタチが失ったからだという評が一部で囁かれていたそうです。この見解を筆者は全く支持しませんが、そう言いたくなる気分は分かります。

『ぼくの伯父さん』でエテックスが単に「助監督」とクレジットされたことには、実は世俗的な理由がありました。映画人職業資格証を有していなかったエテックスは映画技術者組合の規約により「脚本」というクレジットは不可、かといってタチとしては駆け出しの若者を「芸術的協力者」としてジャック・ラグランジュと同列に遇するわけにもいかなかったのでしょう。

しかし『ぼくの伯父さん』という作品とエテックスは、シナリオからポスターまで骨がらみの関係にあり、貢献度でいえば間違いなくナンバーワン、しかもジャック・タチのスタイリッシュなイメージを世界に定着させたのはエテックスのポスターの威光によるところ大です。

それまでのルネ・ペロンによる『のんき大将』『休暇』のポスターに比べ、エテックスの図案は段違いにモダーンで抽象度が高く、ラグランジュによる『パラード』のポスターは別としても、後年の『プレイタイム』『トラフィック』のポスター(いずれも名手ルネ・フェラッチ作)はエテックスのテイストを踏襲したものです。

タチ人名録9ピエール・エテックス4
*映画『ヨーヨー』より

さて、エテックスが映画作家としてデビューしてからというもの、タチは弟子を警戒しはじめました。いっぽう1965年に長編『ヨーヨー』を公開した際にはあまりの批評家受けの悪さにエテックスはタチが陰で糸を引いているのではないかと被害妄想に陥ったそうです。

『プレイタイム』製作中のタチにそんな暇などあるわけがありませんが、タチがエテックスに励ましも助けも与えなかったのは事実のようです。こうなると「他人以上の他人」の関係めいていますが、かたやタチのほうも『プレイタイム』では手痛い酷評をこうむったわけですから皮肉なものです。

このような2人のあいだで最後の会話が交わされたのは1981年5月、タチ命名による映画館《リヴォリ》の新装オープン式の席上でした。こけら落としに『のんき大将』の上映をという提案を固辞したタチは、セレモニーへの出席自体も迷いはじめた。これはひとつには病状(癌)が進んでいたため、いまひとつには代わりに選ばれた作品が『ヨーヨー』だった(よってエテックスも出席するはずだ)からでしょうが、結局タチはやって来ました。

『ヨーヨー』の上映が終わり、タチはエテックスを避けるように他の客人たちと会話を交わしていましたが、エテックスがその場を去ろうとした瞬間、声をかけてきました。

「エテックスさん、ちょっと待ってください! さっきの映画は見逃していたのですが……悪くなかったですよ」
「それはどうも」
「悪くなかった……けど、あなたは難しいことにばかり惹かれるような気がしますね」
「……?」
「以前にも同じような……でも『ヨーヨー』は悪くなかった」

ここでエテックスは黙します。ある記憶がよみがえってきたからです。

それは『ぼくの伯父さん』で、ユロが30秒と経たぬうちに会社を馘首になるというシナリオを考えていたときのことでした。

あらゆるアイディアが様々な理由で却下されたエテックスは業を煮やし、ついにはタチに噛みつきます。あなたが満足するシーンなど書けるわけがない、なぜなら……と、ロジカルに、かつ滔々とまくしたてたのです。これに対しタチは静かに「エテックスさん、あなたは考えすぎなのです……私が解決してみましょう」と言い、かくしてあの冤罪面接シーンが生まれた。エテックスは浅慮を恥じ、師の戒めを肝に銘じました。

脱臼していた2人の関係は、この会話でふっと元のサヤに収まったのでしょう。つまり互いに、相手が師であり弟子であるという当たり前の事実を、いまさらながら思い出し、受け入れた……

「ではまた、エテックスさん」とタチが告げると、わだかまりの氷解した握手を交わし、師弟は別れました。ジャック・タチが亡くなる前年のことでした。

タチ人名録9ピエール・エテックス5
 
(佐々木秀一/執筆)


ジャック・タチ映画の人名録8 ピエール・エテックス③

タチ人名録8 ピエール・エテックス1
*ロベール・ブレッソン監督『スリ<掏摸>』より(1959年/中央がエテックス)

連載第8回 タチの一番弟子(ピエール・エテックス ③独立篇)

映画『ぼくの伯父さん』がカンヌ映画祭で初公開された少しあと、1958年の夏の終わり、ピエール・エテックスは自分を鼓舞すべく朝からシャンパンをあおり出社しました。スペクタ・フィルム社に辞職を申し出るからです。表向きには、真の使命に立ち返ってサーカスの仕事がしたいから、というのが理由でした。ジャック・タチはもちろん引き留めましたが、エテックスの意志は固く……

~ピエール・エテックス~
(Pierre Étaix/1928-)

エテックスの内心はもう少し複雑でした。すでに述べたとおりタチと初対面の段階でエテックスには妻子がいましたが、《タチ商会》の支払うサラリーはそもそも一家の家計に充分とはいえず、待遇への不満は最初期からくすぶっていたようです。

それでもある時、タチが昇給をほのめかしたのでエテックスは期待したのに、給料はいっこうに上がる気配がない。エテックスが経理の幹部に尋ねてみたところ話はまるで伝わっておらず、結局『ぼくの伯父さん』の共同プロデューサーに間に立ってもらって昇給がようやく果たされた(それもスズメの涙ほどの…)、というようなエピソードもあったそうです。

さらに、エテックスの心を崖下まで突き落とす出来事が発生します。

『ぼくの伯父さん』の製作も最終盤、つなぎのシーンなどを追加撮影していた時期、たまたま疲労の極にあったエテックスは照明係のアークライトに長時間照らされているうちにめまいがしてきて倒れてしまいました(今でいう「熱中症」)。ところが監督は心配するどころか「もうへばったのですか」というような言葉を投げかけた。朦朧としたエテックスの意識のなかでは、その言葉にこめられていたはずの危惧や仲間意識のニュアンスは、あるいはすっぽり抜け落ちて聞こえたのかも知れません。

この偶発事をきっかけに、エテックスの心は一挙に辞職の方向へ向かったということです。

宮仕え体験者には誰しも身に覚えのある――逆にいえば「ありふれた」行き違いで、ここに人格上のドラマは無いでしょう。仮にスペクタ・フィルム社が相応の報酬を支払い、タチという上司がもう少し優しい人間だったとして……エテックスの退社は2年か3年は先に延びていたかも知れません。つまり要はそれだけの話で、エテックスはタチといずれ袂を分かたねばならない運命にあった。ヴィスコンティがいつまでもジャン・ルノワールの助監督をしている図など想像できないのと事情は同じです。

タチ人名録8 ピエール・エテックス4
*《オランピア劇場の「のんき大将」》のTVPR→動画はコチラをクリック!

この年からのエテックス/タチの協力関係をたどってみると――

1958年、ジャン=クロード・カリエールの小説版『ぼくの伯父さんの休暇』『ぼくの伯父さん』のイラストレーションを担当。
1960年、翌年再公開の『ぼくの伯父さんの休暇』のために新たなポスターをデザイン。
1961年、舞台公演《オランピア劇場の「のんき大将」》に客演。

少なくとも辞職直後の3年ほどは、師弟ともに相互のメリットを見据えた冷静な関係を維持しているふうでしたが、1961年から1963年にかけてエテックスが『破局』(短編)、『幸福な記念日』(短編/アカデミー短編映画賞受賞)、『女はコワイです』(処女長篇/ルイ=デリュック賞受賞)を立て続けに製作公開してゆくのに歩調を合わせるかのように、タチはエテックスへの警戒を強めていきます。

タチ人名録8 ピエール・エテックス2
*『女はコワイです』より

タチはこれら三作のプライヴェートな上映会を催し、旧知のスタッフやスペクタ・フィルム社の社員を前に、ここはキートンの真似、ここはマック・セネットからの盗用、ここは自分からのパクリ、と指摘していったといいますから怖い。

またタチは1961年と1962年の二度に分け『イリュージョニスト』のシナリオをCNC(フランス国立映画センター)に登録したのですが、製作を断念した同作をわざわざ登録したのもエテックスを警戒してのこと、という説が存在します。

『イリュージョニスト』はエテックスの入社以前に発芽したプランなので、エテックスも構想には参加していたであろう点。このシナリオを実写化する場合、誰が見ても主役の手品師にはタチよりエテックスのほうが適任である点(マジックの技術)。これらから見て、タチがエテックスと共同で(言いかえると「スペクタ・フィルム社として」)考案したアイディアを、一つたりともエテックスには利用してほしくないと思っていたなら、この登録には被害妄想ではなく、正当な防衛の意識を見るべきなのでしょう。

いずれにせよ独立直後の余熱の時期を経て、師弟関係はライヴァル関係へと明らかに移行していきます。
次回は最終編、師弟の永別とエテックスの偉大な貢献について。

タチ人名録8 ピエール・エテックス3
『ぼくの伯父さんの休暇』(カリエール作、エテックス画、小柳帝訳)

(この項つづく)

(佐々木秀一/執筆)


ジャック・タチ映画の人名録7 ピエール・エテックス②

タチ人名録7ピエール・エテックス1
*『ぼくの伯父さん』撮影現場でのエテックスとタチ

連載第7回 タチの一番弟子(ピエール・エテックス ②奮闘篇)

絵の才能が決定打になって雇われることとなったピエール・エテックスでしたが、ジャック・タチはエテックスに「絵コンテ」要員を期待したわけではありません。ヒッチコックや黒澤明のように《シナリオ→絵コンテ→撮影 》という工程を採っていたわけではなく、逆にタチはシナリオを練りあげるために「絵」を必要としたのです。

タチの喜劇は奇抜なストーリーや言語ギャグとはあくまで無縁で、その作風は観察ギャグの連鎖から大きなテーマがぼんやりと浮かびあがる態のものです。この特質上、タチは市井を観察してギャグの材料を集め、そのネタを完成された寸劇に発展させ、さらにそれらを組み合わせてシナリオを固めるという手順を踏んでいました。

そしてこの過程で必要とされたのは言葉ではなくデッサンやクロッキーであり、いわばタチは言語や観念ではなくもっぱら視覚(と聴覚)で考えるタイプの作家だったわけです。

画才のないタチは『ぼくの伯父さんの休暇』からジャック・ラグランジュという協力者を得ていたものの、ラグランジュはタチと年齢も近く、すでに画家として一家を成していました。対して若いエテックスは顎で使えるうえ、正統的な舞台美術家ラグランジュにはないギャグのセンスも持ちあわせていました。タチの方法論からいって大いに重宝したのは想像に難くありません。

~ピエール・エテックス~
(Pierre Étaix/1928-)

タチ人名録7ピエール・エテックス2
*奮闘する若きエテックス

かくして『ぼくの伯父さん』のシナリオ準備のため、エテックスが画帳を片手にパリをうろつく日々が始まりました。

ロケハンも兼ね、各所で目についた奇妙な事象(人物、出来事、建物etc.)をスケッチする。事務所に帰ってからはタチと意見を交換し、拾いあげたネタを一篇のギャグに昇華させてみる。アイディアを独得な着想で発展させるタチ、素早くそのイメージを描き留めるエテックス。幾つものヴァリエーションが自在に生まれ、師弟は笑いの純度を高めてゆく。それはギャグの「正解」を求めてモンタージュ写真を作成していくような作業だったのでしょう。

この連載ですでに触れた好著『エテックス、タチをデザインする』を眺めると、『ぼくの伯父さん』でのギャグのみならず後年『プレイタイム』『トラフィック』で採用されることになるギャグの原型が散見することに驚きを覚えます。ただし念を入れるべく付言すると、上記のプロセスからいって、それらはエテックスの独創というよりは、タチとエテックスの共同作業の結果と見なすべきものでしょう。

ちなみに『ぼくの伯父さん』で描かれる2つの世界のうち、アルペル邸の造形はラグランジュに負うところが大ですが、ユロの珍妙なアパートの造形はエテックスのフィールドワークの成果だというのが定説で、加えてアルペル夫人などの登場人物の外見もエテックスの筆から生まれたことがその画帳から窺えます。

タチ人名録7ピエール・エテックス3
*左からタチ、アンリ・マルケ(助監督)、エテックス

『ぼくの伯父さん』のクランクインは1956年9月と伝えられています。とすると、シナリオに2年もかけたわけで、ここにもジャック・タチの仕事っぷりがあらわれています。

若きピエール・エテックスは撮影現場でも助監督という立場で奮闘します。映画の世界でいう「助監督」とは「何でも屋」の謂であり現場一の下っ端、しかしエテックスは専制君主ジャック・タチの無理難題によく応えました。

以下本稿では現場裏方としての活躍は割愛し、いま一度連載の流れに立ち戻って「演者」としてのエテックスに焦点を当ててみましょう。

ピエール・エテックスは『ぼくの伯父さん』の2つの場面に顔を出しています。

一つは縁日のサンモール広場のシーン。ユロのアパートの管理人のおばさんが庭先で一心不乱に鶏の羽をむしっています。通りかかった郵便配達人がいたずら心を起こして「クヮ、クヮ、クヮ、クワァー」と鳴きまねをしたため、おばちゃんは鶏が生き返ったのかと勘違いし、びっくりして腕をブルブルさせます(そのため鶏の亡骸はまるで生きているように身を震わせる)。聴覚ギャグが視覚ギャグに変化してゆく、鋭いシュートボールのような笑いですね。

エテックスがこの郵便屋さん(短編『左側に気をつけろ』以来のタチのオブセッション・イメージ!)に扮しているのはつとに有名ですが、実はここ以外にもう一箇所出演シーンがあります。

タチ人名録7ピエール・エテックス4

それはアルペル夫妻の結婚記念日、夫人がこっそり自動開閉式ガレージを旦那にプレゼントしようとする場面で、この資材を運び入れる作業員の一人(口髭のあるほう)が何とピエール・エテックスなのです(ちなみにもう一人は本連載第1回に登場したジャック・コッタンその人)。

エテックスほどの千両役者をこれだけしか使わないのですから何とも贅沢な話ですが、残念なことにエテックスがタチの映画に出演するのも、これが最初で最後となります。
その理由は次回。

(この項つづく)

(佐々木秀一/執筆)



ジャック・タチ映画の人名録6 ピエール・エテックス①

タチ人名録6ピエール・エテックス1

連載第6回 タチの一番弟子(ピエール・エテックス ①邂逅篇)

ジャック・タチに師匠はいませんが、弟子筋にあたる人物は何人か存在します。例えばジャン=クロード・カリエールやソフィー・タチシェフ。しかしカリエールはノヴェライゼーション作家に抜擢されたことが縁のいわば外弟子、ソフィーは弟子である以上に肉親であるという点がそれぞれ正統感をやや弱めています。

直系の一番弟子という称号に誰が見てもふさわしいのは、やはりピエール・エテックスでしょう。なにしろエテックスはタチの製作会社スペクタ・フィルム社に一時期在籍すらしていたのですから立派な内弟子です。

というわけで、ここから数回エテックスを扱いますが、エテックス氏はいまや巨匠であり、その全貌を過不足なく紹介することなど筆者の浅学には不可能なので、あくまでタチとの接点をアバウトに描くのみであることをあらかじめお断わりしておきます。

タチ人名録6ピエール・エテックス2
*映画作家、俳優、道化師、ギャグ作家、手品師、イラストレーターとマルチな才能をもつエテックス

~ピエール・エテックス~
(Pierre Étaix/1928-)

1928年にフランス中央部ロアンヌに生まれたエテックスは、14歳で地元の名匠に師事してステンドグラスの技法とグラフィックデザインを学びはじめます。いっぽうでかれは、5歳の頃から道化師とサーカスの世界に憧れ、アマチュア芝居に参加するような少年でもありました。

ガラス工芸の見習い修行を終えた後、1953年段階ですでに妻子がいたエテックスは諷刺雑誌にユーモア漫画を寄稿し生計を立てていました。同年に封切られた『ぼくの伯父さんの休暇』を観たエテックスは「それまでの喜劇映画とは一線を画す、むしろミュージックホールやサーカスの香りのする」この作品に魅了されます。

翌年、そのジャック・タチが出演するラジオを聴いたエテックスは意を決します。タチはサーカスを話題にしたうえ、イラスト画家や作家カミ(『ルーフォック・オルメス』)についても触れ、「映画作りの仕事では、イラストを描ける人が有利」と語っていたのです。

サーカス芸人になるという自分の夢についてこの人物に意見を訊いてみたいと、エテックスはタチに手紙を送ります。「当方は役者、演出家、舞台美術家。一度是非お会いいただきたく…」。1954年2月3日のことでした。

タチ人名録6ピエール・エテックス3
*エテックスによるデザイン画。

曲折を経て、8月8日に最初の面談。エテックスはロアンヌから長距離トラックに便乗して上京していました。夕方の6時、パンティエーヴル通りの自宅で、エテックスの自己紹介が済むとジャック・タチは口火を切りました。

「あなたは役者になりたいのですか」

エテックスがかぶりを振ると、それは結構、さもないと、あれは最低の商売ですよと言わねばならぬところでした、とタチは反応した。

それでは何がやりたいのと訊かれたエテックスがサーカスへの夢を語ると、タチは「あれは一種の閉鎖社会で、外部の人間が入りこむことなど不可能です」と即座に却下、自分の体験もまじえて懇々と諦めるよう諭された。

梨園への幻想を砕かれた形の若者に、タチは映画には興味がないのかと尋ねた。正直に、映画の製作については何も知らないと答えたエテックスは「でも、あなたの映画の端役に使ってもらえるのならとても嬉しいのですが。なぜなら…」とタチ作品への賛嘆を語った。

じゃあ、あなたにはどんなことができるの、と返してきたタチは、エテックスの持参していた書類鞄にふと目を留めます。

そこにはイラスト作品が100点ほど詰めこんでありました。タチは1枚1枚じっくりと眺め、ときどき「こういうイラストを描くことが好きなの?」とか「これ、気に入っている?」と訊いてきた。観終わったタチはやおら立ち上がり、どこかに「見せたいものがあるから来てくれ」と電話を入れた。相手は秘書兼マネジメント担当のベルナール・モーリスでした。

時計の針はもうじき9時をさそうとしていました。ジャック・タチは改めて若きエテックスに語りかけた。「私のところで働きたいとやってくる若者は多いのですが、いかんせん連中には観察の才も喜劇のセンスもない。でもこのイラストには……。次回作のシナリオの仕事を私とやってみませんか。『ぼくの伯父さん』というタイトルなのですが」

(この項つづく)



REVOIR LES FILMS DE PIERRE ETAIX... 投稿者 iletaixunefois

*エテックスとカリエール。エテックスにとっては深刻な自作の上映権問題まで笑いのネタにしてしまう二人の巨匠!


(佐々木秀一/執筆)


Appendix

プロフィール

タチヨン

Author:タチヨン
日本ではたぶん唯一のファンサイト「ジャック・タチの世界」を運営しています。フィルモグラフィetc.は、そちらをご覧ください。
タチの人生を詳細に描き出した評伝「TATI―“ぼくの伯父さん”ジャック・タチの真実」もヨロシクお願いします。タチ関連の情報があれば、ゼヒお知らせくださいませ。

連絡先:tati@officesasaki.net

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