連載第12回 名優、家族の肖像(ダキ ②最後の里親)ジャック・タチは若き日、名門レーシング・クラブ(ラシン・クラブ)のラグビー・チームに所属していました。練習や試合が終わるとメンバーは宴会に繰り出し、その余興のなかでタチの芸は磨かれていった。当時のチームリーダーはのちにフランス人口統計学の泰斗となるアルフレッド・ソヴィー、配下にはタチ以外にも破格の人物が大勢いました――という評伝的事実を今回はマクラにしたうえで・・・
~ダキ~(Daki/生没年不詳)
『ぼくの伯父さん』に登場したあの愛らしいワンちゃんたちは、その後どうなったのでしょう? タチは集めてきたワンちゃんを動物愛護協会へUターンさせるのではなく、ここでもやはりフィガロ紙に3行広告を出したそうです。
「犬小屋とエサ求む/近々撮影任務より解放される/将来の映画スターたち」。
クランクアップ直後にひっそりとこういう措置をとったことに、ジャック・タチの文句なしのセンスと、良いほうの人柄が偲ばれますね。もし公開したあとだったら、時の話題になってワンちゃんたちには鬱陶しい大騒ぎが起こっていたことでしょう。それでも多数の応募が寄せられ、全員に新しい里親がついたとのこと(めでたし)。

さて、肝心のダキ君ですが、実は彼のご主人ボラー・ミネヴィッチは『ぼくの伯父さん』の撮影開始と前後して急死してしまいます(「前後」と言うのは、没年に1955年説と56年説があるからです)。状況や時期から見て、ダキはこの間ジャック・タチ家に居候(あるいは撮影スタッフの一時預かり)になった可能性は充分にあるものの、正式な継主はきっちり見つかっていました。
そのあるじとはジャック・ブロイド(1908-1987)。モスクワに生まれたユダヤ系ロシア人で、幼くして母親と徒歩でスイスに亡命、ジュネーヴで育ちスイス国籍を取得、入社した時計メーカーの販売代理人としてパリに滞在中《レーシング・クラブ》に入り、タチとチームメイトになります。
ブロイドはタチとウマが合ったらしく、チームの夜の余興ではタチとしては貴重な(あるいは生涯「唯一の」?)コンビによる対話演目のパートナーをつとめたり、1936年の短編映画
『左側に気をつけろ』では、チャンピオンに伸されるスパーリングパートナの一人を演じたりしています。ただしこのあたりまではブロイドにとっての「前史」にあたり、ほんとうの開花はその少しあとにやってきます。

*ジャック・ブロイド(『左側に気をつけろ』より)戦雲垂れこめるこの時期、ブロイドは映画ファンにはおなじみのパテ社に職を得ます。といっても映画製作ではなく撮影機材の製造部門。ブロイドはスイスの時計会社での研修を除けばこれといった工学教育は受けていなかったのですが、エンジニアとしての天賦の才があったのでしょう、パテ社の研究所でめきめきと頭角をあらわします。
終戦直後の1946年にはハンディカメラWEBO(16㎜/9.5㎜)を開発、この製品は大成功を収め、1980年代初頭まで同じ機種の生産が続けられるロングセラー商品となりました。ブロイドは以降、ジョワンヴィルにあるパテ社の工場のトップ、同社の重役へと登りつめていきます。
ブロイドは亡くなるまでに実に750もの特許技術の開発に携わり、その大半が21世紀になってからも活用されているといいますから、驚くべき技術屋です。
さてこのブロイド一家は、『ぼくの伯父さん』が公開された1958年にフランスを離れ、スイスに帰国します。当然、家族の一員としてダキ君もジュネーヴへの旅程を共にしました。
以降、われらがダキ君はスイスで恵まれた余生を送り、その直系の子孫が現在なお「ブロイド家」で幸せに暮らしているということです。
前回書き落としたのですが、ダキの最初の里親ボラー・ミネヴィッチは、ブロイドと同様ユダヤ系で、彼らがウクライナからアメリカへと、あるいはモスクワからスイスへと、幼くして移住を余儀なくされた背景には、明らかに歴史的事実としての「ポグロム」の影がうかがえ、なかなか考えさせられます。
ダキ君はブルジョワ家庭からブルジョワ家庭へとトレードされたとも言えるし、ジャック・タチもロシア貴族の末裔であることを考え合わせれば、次々とロシア系人士によりバトンタッチされたとも言えるでしょう。
「なるほど、君は漂泊ロシア家系のダックスフントなのだね?」と問うなら、ダキ氏は「ウウウーイー」と肯定してくれることでしょう。
(佐々木秀一/執筆)
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