連載第3回 のんき大将(DISK 1)年に一度の祭りの日。興行師たちのトレーラーが村に到着し、人々は晴れ着をまとって縁日の広場に繰り出す。浮かれた村人たちのからかいに郵便配達人フランソワは発奮、アメリカ式郵便配達を試みるが、その愚を悟るころにはちょうど、荷物をまとめた興行師のトレーラーは田舎道を去ってゆくのだった……
ジャック・タチの作品はある事物の去来という共通構造をもっています。あるいは、到来の高揚と、去り行くことの切なさと。
1 二代がかりの挑戦序章で触れたとおり、このBOX(Blu-ray版)の最大の特徴は各作品の別ヴァージョンを必要充分に収録している点にありますが、そのコンプリート感が爆発したようなのが本巻です。
オリジナル白黒版を鑑賞して強く印象に残るのは、重厚な建造物、農家の家屋、家畜、子どもたち、汗と砂埃、田舎道、アルコールの匂いと二日酔いの渇き、つまりは1947年という時代のある村の習俗や人々の息吹と、壮年期のジャック・タチの目をみはるほど荒々しい肉体の躍動です。この作品は地元民を多数作中に登場させたロケ映画である点で、同時代のネオレアリズモとの類縁をしばしば指摘されますが、この印象は本ヴァージョンで最も強い。
一方はるか後年のカラー版では、縁日の華やかな賑わいのなか、人は良いけど変人の郵便屋がアメリカ式スピードにかぶれて一人「脱線」してゆく姿がむしろ微笑ましく感じられるほどです。
白黒版では人々の意地悪がフランソワの感情に火をつけ後半はリベンジのドラマと化しますが、カラー版では祭りの抒情とドタバタ喜劇が絶妙な均衡を保っています。もっと端的に全体的印象を要約するなら、獰猛性vs牧歌的童心。かくなる変化は正当なものなのでしょうか。この問いのヒントは、中間の部分着色版にあるはずです。
『のんき大将 脱線の巻』のカラー撮影失敗は、実は撮影途中には判明していました。したがって編集作業に入ったタチは、シナリオ段階での構想が狂ってしまったことを自覚していたはずです。ことによればこれが原因で、不本意な編集を強いられた局面もあったかも知れません。
のちの部分着色版は、タチ本人が編集にあたったヴァージョンなので、映画作家としての成長から後天的に生じた不満と、すでに初版編集段階で抱いていた先天的不満を二つながらに解消しようとする試みだったはずです。ではこのヴァージョンで、タチは初版から何を引き、新たに何を足したのか。
減算は、郵便配達人をなぶりものにする興行師コンビの悪乗りめいた掛け合いの一部。村人たちの揶揄のなかでも過剰な部分(台詞)。山羊をつれたおしゃべり婆さんの出番とそのつぶやき。ギャグ場面の無駄なショット。
加算はずばり、色彩(部分着色)と青年画家(追加撮影)です。
本編がはじまって初めて「色」が登場するのは、画家がフランス三色旗の絵を描く場面。ここから見てタチがこのヴァージョンで唐突に画家を登場させたのは、ひとつには部分着色といういささか時代錯誤的な方法を観客にエクスキューズするためと考えられます。
ここで「ひとつには」といったのは、さらに以下の理由も考えられるからです。
冒頭でタチ作品の共通構造について述べましたが、タチの映画には「語り口」にも特徴があります。それは、絶対に一人称ではなく必ず三人称、それも通りすがりの第三者が奇妙な現象に目をとめ眺めているような視点。この他人事めいた距離感は、観客に感情移入ではなく共感、というよりは同意(「そういう事って、あるんだよな」)を芽生えさせます。つまりタイトル自体で喩えるなら、タチの看板作は「ユロ」についての映画なのではなく「ぼくの」伯父さんについての映画なのです。
この原則からすると『のんき大将 脱線の巻』は一人称に近すぎる。一見おしゃべり婆さんが「ぼく」の位置を占めているように思えますが、彼女は観察者というよりレポーターであり、最後には郵便配達人を諭しさえします。それに興行師の悪だくみや村人の悪口が激しすぎて、観客すら腹が立ってフランソワのリベンジ精神にあやうく感情移入しかけるほどです。
おそらくタチは、第1ヴァージョンのこの「感情のドラマ性」を嫌った。感情が引金となって行動を生み、それが物語となる因果律の窮屈さを解消するには、通りすがりの第三者の軽やかな視点がほしい。
画家というのは観察し、描き、色を塗る存在です。追加された青年画家と色彩とは、いいかえればオリジナル版に不足していた観察者の距離感と、奪われた「色」あるいは彩色構想のはずです。
ソフィー・タチシェフ編集によるカラー版は、失われた色彩を奪回する試みであったと同時に、もし期待どおりに素材が揃っていたら、私はどういうふうに仕上げていたでしょうかという実父からの設問への、ソフィーなりの解答でもあったでしょう。
色が入手できた以上、青年画家を捨てるのは当然でしょうが、それだと再度「感情のドラマ」に陥りかねない。ソフィーは巧妙にも、おしゃべり婆さんの出番も興行師たちの悪乗り場面も減らしたままにしました。この設定で祭りに「色」が——縁日の遊興具の彩りや女性の晴れ着が——舞い降りてくることによって、花のような賑わいが驚くほど引き立ち、自動的に郵便配達人のドラマは影が薄くなります。
おそらく公開当時の観客だったら現在の観客以上に、物珍しい「色」に幻惑され引きつけられていたことでしょう。タチの当初の構想どおりモノクロームの町に祭りが色彩と活気をもたらし、祭りが終わると色彩は興行師の荷物にしまわれて退潮してゆく。
ジャック・タチなら、実娘の「解答」たるカラー版をどう採点したでしょうか。
個人的に筆者なら98点でも良いと思います。減点はラストシーン、スキップを踏みながら追いかける少年と遠ざかっていくトレーラーの距離がもっと開くまで映像をひっぱってほしかった。あたかも少年がお祭りをどこまでも追いかけ、名残りを惜しんでいるかのように。どこまでも、どこまでも……
2 特典映像からの余禄特典映像として収録されたステファヌ・グデの作品分析のなかに興味深い言及があったのであわせて紹介しておきます。
まず、ジャン・ヴァレという監督が戦前にカラー映画を製作していたという事実。この点はすでにフランソワ・エドゥが自著の中で触れていて、それによると1935年と1936年に公開された二つの作品でカラー技術が導入されていたそうです。ただし、それぞれカラーとしての品質が標準に達していなかったり、特殊な映写機を必要としたため、人々の記憶からも映画史からも消えていた。
したがって『のんき大将 脱線の巻』は「ごく通常に市場で流通しうる純国産カラー映画を初めてフランスで製作する試みだった」と説明するのがより正確でしょうか。事実誤認と指摘される前にお詫びのうえ補足します。
つぎに『のんき大将 脱線の巻』は、話をフランス国内に限ればタチ作品のなかで最も観客動員が多かった映画だという指摘。『ぼくの伯父さん』の存在を考えると少し意外に思えるかも知れませんが、これは紛れもない事実です。筆者の調べでは、
『のんき大将』(681万人/この年バーグマンの『ジャンヌ・ダーク』に続いて2位)
『休暇』(507万人/この年7位)
『ぼくの伯父さん』(458万人/この年7位)
『プレイタイム』(120万人)
映画が娯楽の王様だった時代の勢いも手伝っているとはいえ、郵便配達人に大笑いした同時代のフランス人は思いのほか多かったわけです。
なお、このBOX(Blu-ray版)には56頁もの解説冊子(ブックレット)が付いていて、映像特典だけでなくこちらも充実しています。
このなかで『のんき大将 脱線の巻』について以下のような記述が見えます。
「カラーフィルムの感度が非常に低かった(…)感光させるには多量の光源が必要でしたが、撮影は猛暑の夏に行われ、何もかもとても明るく、非常に白っぽい光のせいでむしろ露出過多になりました」
筆者はつねづねこの作品の屋内シーンの映像(例:山羊が電報を食べてしまうシーン)が妙にキレイなことを不思議に思っていました。事実は逆で、屋外シーンの映像が不安定なだけと解すべきだったのです。
この映画のカラー版を計画していた撮影隊はあくまで晴れ間を狙い、それを徹底しすぎた結果、少なくともモノクロ版は露光がオーバー気味になった。いっぽう屋内撮影なら人工的に照明を調節できるので映像は安定する——このヒントには目からうろこ、腑に落ちた気分でした。
いわばハードの技術情報から疑問を解明する糸口が示されたのは一種感動的でしたが、このブックレットに掲載された各作品の「修復リポート」にはこの種の発見や卓見、貴重な情報が幾つもありました。次回以降も少しずつ紹介していくつもりです。
☆商品情報『ジャック・タチ コンプリートBOX』 [Blu-ray]
日本コロムビア / COXM-1094~1100
『ジャック・タチ コンプリートBOX』 [DVD]
日本コロムビア / COBM-6696~6702
*Blu-rayとDVDでは内容・価格が異なりますのでご注意ください。
なお本稿では、あくまで[日本版Blu-ray]のほうを扱っています。
(佐々木秀一/執筆)
〈追記〉
2015年2月、「のんき大将」単品の
Blu-ray&
DVDも発売されました。
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