連載第6回 プレイタイム(DISK 4)このDISKの特典映像のなかには米国ABCテレビが『プレイタイム』撮影中のジャック・タチを取材したドキュメンタリー番組が収録されています。
当時の撮影現場では「タチヨン」(些事にこだわる人)というありがたくない仇名を頂戴したタチですが、演出にあたる姿には威厳があり、そのカリスマ性がモノクロ映像に尋常ならざる迫力を与えています。『プレイタイム』を作るためにこの世に生を享けた男の実像が、生々しく定着されているのです。
1 二つの謎を解決する映画祭のスクリーンで観た『プレイタイム』の映像は、とにかく抜きん出て美しいものでした。この作品はフィルム時代に一度フランソワ・エドゥが大修復をおこなっているため、デジタル修正はそもそも高いスタート地点からさらに入念になされたようです。
『プレイタイム』は70ミリ映画として製作されました。70ミリというと『ベン・ハー』とか『サウンド・オブ・ミュージック』からあのワイドなスクリーンが連想されるため、普通の縦横比の『プレイタイム』は70ミリじゃないのでは、という疑問をもたれる方がいるようです。この疑問には、公開直後のタチ自身の発言が解答を与えてくれます。
「正真正銘の70ミリではないんですが。つまり、多少映像の左と右の端を切ってごまかし、ネガの両側のほんの少しをサウンドトラックに充てています。そういうわけで、ぼくは多少ヴィスタヴィジョン・フォーマットに近づいているんです」。
たぶんタチは70ミリの不自然な横長さが視覚的に嫌いだったのでしょう。70ミリに求めたのは絵巻物のような眺望ではなく、フィルムの精度のほうでした。つまり70ミリフィルムは35ミリの4倍近い面積を持つので、同一ショットなら解像度がまるで違うのです。
『プレイタイム』の映像が圧倒的に精細な理由の第一はこれです。そもそも撮影フィルムの品質が違うのですから。
次は筆者自身の疑問です。
映画祭が決まってからこの『プレイタイム』の紹介には「当時の為替レートに換算した総製作費1093億円」という謳い文句がつくようになりました。この数字の根拠は例えば——
「1949年の『のんき大将』は1700万フランかかって6000万フランの利益。1953年の『休暇』は1億2000万フランかかって2億1000万フランの利益。1958年の『ぼくの伯父さん』は2億5000万フランかかって8億フランの利益。(…)『プレイタイム』は15億フランかかって8億フランの赤字」。
これは1979年のあるインタビューでのタチ自身の発言です。ここで問題なのは、フランスでは1960年に旧100フラン→新1フランのデノミネーションが実施された点で、タチが言っている15億フランというのは「15億旧フラン」を意味するのではないかという点です。というのもフランスでは、このようにデノミをはさんで金額を比較する場合とか、デノミ後でも宝くじの賞金を謳うときなどはあえて旧フラン単位で表現する習慣があったからです(「賞金総額1000億銭!」のようなものです)。
ちなみにフランソワ・エドゥ/ステファヌ・グデの『プレイタイム』という文献でも「この作品の予算は15MF(1500万フラン)を超えた」とありますし、この作品が初公開されたときの日本版パンフレットには「フランス映画史上最大の製作費1,200万ドルをかけ」とあります。当時のドルの実体的価値を勘案すると、やはり「15億(新)フラン」とは考えづらいのではないかというのが個人的疑問です。
しからば当時の15億旧フラン=1500万新フランは、現在に勘算すると幾らくらいなのでしょう。1967年の為替は1フラン=72.92円。1500万フラン→10億9380万円(必然的にちょうど2桁違うわけです)。昭和42年(1967年)の大卒初任給は2万6000円くらいでしたから、今ならざっと84億円。
『ぼくの伯父さんの授業』をご覧になると分かりますが、タチヴィルというセットは街を完全に造ったわけではなく、張りぼてを滑車に乗せるなどのトリックがありました。『プレイタイム』の総製作費は現在の84億円相当(その大半はセット建造費)という推定は合っているのかいないのか、識者のご教示をお待ちします。
2 涙の出てくる映画『プレイタイム』を観ていたら眠くなったとか、「どこが面白いんだか皆目見当がつかない」という感想は昔からよく聞きます。実をいえば体調が優れずパワーが不足している場合など、筆者のようなタチフィルですら眠くなることはあるのです。これには仕方のない理由がありますし、逆にここがこの作品の特異な魅力を説明する切り口になりますので、以下に論じてみます。
ジャック・タチはこの作品の構造を「直線から円運動への移行」と語っています。なんだかパウル・クレーの『造形思考』みたいな定義ですが、確かに作品前半はビルの直線と重苦しいグレイの色調が次々に押し寄せてきて、観客は少し憂鬱な気分にすら陥ります。ここを切り抜けレストランのシーンに辿り着くと、スクリーンに曲線や色彩が溢れ始めて俄然気分が高揚します。
一夜明け、ユロが見知らぬ人に託したプレゼントがバーバラに手渡された瞬間から映像は美しくも力強い円運動を開始し、映画の奇跡ともいうべきあのエンディングを迎えます。このラストの5分で泣きたくなった、あるいは本当に目から涙が溢れてきた観客は非常に多いはずです。感動的なストーリーという要素はないのに、これは何ゆえなのでしょう。
タチはこの映画の前半で、観客の居心地を悪くすることにひたすら専念します。現代社会が人間を冷たく疎外する光景を描いている、という以上に視覚的・聴覚的刺激が観客の感覚を圧迫してくるのです。
もちろん喜劇ですから、ベタなギャグが「逃げたくなった観客が実際に席を立たないよう」散りばめられています。そしてこの前半の少し拷問めいた圧力があるからこそ、遊び時間(プレイタイム)に入ってからの観客の解放感はいやます高まり、映画ラスト5分でこのユーフォリックな快感は最高潮に達するのです。観客の涙は心理的な反応というより、いわば物理的・生理的なそれに近い。
しかもジャック・タチは、この「装置としての映画」の仕上げで「タチ的」としか言いようのない方法を用いてきます。あの最後のシークエンスでパリのどまんなかに何が出現するのか。物語の最初のほうではただの街灯にしか見えなかったものが、エンディングではなぜ「あの花」に見えてくるのか。
『ぼくの伯父さん』は「家」の映画で、アルペル邸とユロの住居は地域も見た目も融合しようがありません。これに対し『プレイタイム』は「ビル」の映画で、街の建物は選択の余地がないほど画一化されています。もし仮にジェラールがこの街に放り出されたら、少年は人生の幸せをどこに求めたらよいのでしょう。
『プレイタイム』はこの問いへの、タチなりの真摯な解答だったのかも知れません。選択の自由すらないなら、破壊と再創造しかない。ロイヤル・ガーデンの天井が崩れ、新たな酒場が出現したように。さもなければ無機物を生きた花に変える錬金術が必要になります。
ある体験が観客の感覚をへしまげ観察対象の見え方が変化したのか。それともある体験を経た結果、観客が観察する対象がそれ自体おのずと変貌したのか。いずれにせよ『プレイタイム』はわれわれに、その体験をプレゼントしてくれます。ジャック・タチの魔術そのものです。
3 警告:どうか1度はスクリーンで!警告、なんて偉そうに言ってしまいましたが、以下は筆者からの体験的アドヴァイスだと思ってください。
映画作品をテレビのモニターで鑑賞することの是非とか、スクリーンで見なければ鑑賞体験とは見なされないなどと高踏的なことを言うつもりではありません。
しかしタチの他の作品は百歩ゆずったとしても、この『プレイタイム』だけは、どうか劇場で、スクリーンで一度は体験してほしい作品なのです。
タチの作品はどれも観るたびに新たな発見があるので、なんべん鑑賞しても飽きない映画です。ですからスクリーンで観るのは、初見でなくとも何回目の鑑賞でも構いません。
ともかく強調したいのは、一回ビデオで観ただけで価値を低く判断してしまい、あともう観ないという選択だけは絶対にしてほしくない、ということです。最初テレビモニターで観てつまらないと思ってもいいのです。なぜなら次の機会にスクリーンで観れば、どんなに印象が違うか自分でもびっくりするはずですから。
ほんとうに、修復が完璧なせいもあって、つい昨日できあがってきたような鮮度の高い映像なんですよ。近未来設定だからという理由ではなくて、歳月の経過とともに「新しく」なってゆくような映画なんですよ。みんなで遊ぶのが楽しい、広大な遊園地みたいな映画なんですよ。
☆商品情報『ジャック・タチ コンプリートBOX』 [Blu-ray]
日本コロムビア / COXM-1094~1100
『ジャック・タチ コンプリートBOX』 [DVD]
日本コロムビア / COBM-6696~6702
*Blu-rayとDVDでは内容・価格が異なりますのでご注意ください。
なお本稿では、あくまで[日本版Blu-ray]のほうを扱っています。
(佐々木秀一/執筆)
〈追記〉
2015年2月、「プレイタイム」単品の
Blu-ray&
DVDも発売されました。
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