連載第7回 トラフィック(DISK 5)パリとアムステルダムの距離は約400km、日本でいうと東京—仙台間くらいです。当然、半日で行けます。パリの自動車会社アルトラ社は翌日からアムステルダムで開催されるモーターショーに新作を出品する計画でした。展示資材を運ぶ車は順調に到着しその日のうちに設営は完了。ところが肝心の新車が到着しない。新作キャンピングカーをトラックで運んでいるのは運転手と設計者ユロのコンビ。
トラックはパンク→ガス欠→クラッチの故障(修理のためベルギーで一泊)→広報担当マリア嬢の車に先導されるが国境検問にひっかかって警察で足留め(一泊)→オランダに入ったものの玉突き事故に巻きこまれキャンピングカーの修理が必要に(塗装屋で一泊)、やっとアムステルダムに到着したころには展示会は撤収中、マリアが日程を勘違いしていたらしい。間の悪い誤解も手伝って、ユロはその場で部長にクビを言い渡される……
『トラフィック』は紛れもなくロードムービーですが、土地の風俗や登場人物の成長よりも、車が引き起こすトラブルのほうをより克明に描いている作品です。いわばホモ・サピエンスとは別種の【車両/運転者】という生命体の生態観察のような。あるいは路上のフィールドワークのような。この映画が文学的に「○○の旅」ではなく社会学的に「交通」と命名された理由はそこにあるのでしょう。
1 ユロ氏の復活『トラフィック』はそもそも、フランス、オランダ、スウェーデンの製作会社が共同出資し、「シネマ・ヴェリテ」系の映画作家ベルト・ハーンストラが監督、ジャック・タチが脚本・主演(ユロ氏という条件付)を担当するという役割分担で製作されるはずでした。
『プレイタイム』の興行的失敗により業界的信用を失ったタチは、もはや自己の完全主導では映画を撮れず、不本意な条件を飲むことと引き換えにかろうじて新作にタッチできる権利を確保したわけです。
撮影は1969年春から開始され、ハーンストラは展示会場のシーン(設営前のがらんとしたホールのシーンも含む)や、鼻のあなをほじるドライバーの様子を撮影しました。
この作品のプランは、タチがハーンストラの映画『動物園』を高く評価したことで生まれた二人の友情から始まっています。
ところがいざ仕事が開始されると、タチがシナリオを完成させられないやら、演出感覚が違うやらで二人の関係に狂いが生じ、製作会社の思惑もからんで全ての人間関係が空中分解してしまいます。1969年の夏にはハーンストラはこの仕事から身を引き、以降撮影は、製作がロベール・ドルフマン(ルイ・ド・フュネス映画などの花形プロデューサー)、監督・主演がタチという布陣で進行していきます。
しかしスペクタ・フィルム社が正式に司法管理下に置かれるなどの不穏な動きもあって69年末より撮影は中断、翌年夏には再開されますが、撮影最終盤の1971年3月にはアムステルダムでついに資金が切れて、カメラマンもフィルムも現場から引き上げられてしまいます。この窮地を救ったのはスウェーデンからたまたま取材に来たテレビクルーで、人手も資材も肩代わりしてくれたのはこの外人部隊でした。この縁は、次作『パラード』へと繋がってゆきます。
以上のように『トラフィック』は極めて不安定な状況で製作された作品です。
この作品のサウンドトラックの効果音は自動車の轟音が中心で、いつもより「音のあそび」が少ないことにお気づきでしょう。『プレイタイム』のビル群のような意味で、このグォーンという圧迫音が物語に必要だったのはよく理解できます。で、この騒音では遊ぶ必要がなかった、だから音響には凝らなかったのか。それとも納期が迫って時間がなかったから凝れなかったのか。
こんな設問をたてるのも、『プレイタイム』では1年を費やした編集作業に、この作品では1ヵ月ほどしか要していないからです(1971年4月16日公開)。オーナに叱られないよう雇われ社長が大急ぎで「納品」したような風情もあるのですが、こと音響問題についていえば、凝りようがなかったというのが実情だったような気がします。
ただし作品の全体的クオリティは高く、背後の苦しい事情など微塵も感じさせません。というよりも、肩肘はらずに接することができる万人向けコメディに仕上がっていると言えます。
このDISKの特典映像で評論家ジョナサン・ロムニーが指摘しているのですが、この作品には幾つか「タチらしくない」ディテールがあります。例えば、赤ん坊のお尻が女性のおっぱいに見えてしまうという露骨に性的な描写。毛皮を犬に見立てて車に轢かれたように見せる(残酷な)いたずら。ハーンストラが撮影したようには見えないほどタチっぽい映像もあれば、自分で撮ったのにタチらしくない部分もあるのです。
本作は脚本もタチ担当ですが、シナリオに難儀したのは撮影序盤だけではなく自分が監督に昇格してからも同じで、ディテールの構築はほとんど路上での即興ばかりだったそうです。資金がパンクしたのはシナリオの欠如のため先の予定が立たなかったことが原因だったとか。かくなる行き当たりばったりゆえ「らしくない」部分が混入したのでしょうが、でもこの種の(下品な)ギャグは分かりやすくて誰にでも受けるものです。
要約が容易な直線的ストーリーや、怪我の功名めいた大衆性、いかにもタチらしい詩的な映像(多重衝突事故のシークエンスと、あの降雨のラストシーンは傑出しています)。これらがほどよくミックスされた、タチ作品のなかでも一番とっつきやすい一本といえましょう。
2 スピンオフ映画この映画で魅力的なシーンは他にもあって、ユロが路上でトラブル処理に奮闘しているのが可笑しいようにも悲しいようにも見える箇所です。ガス欠でガソリンを調達しに行く場面などが典型ですが、呆然としながらも必死になっているあの佇まい。
ハーンストラからバトンを受けたタチが取り組んだのは、ほとんどが路上でのロケーション撮影シーンでした。期限に迫られ焦燥にかられているのは、作中のユロ氏なのやら撮影中のタチなのやら。路上での、しかも他国の路上での「フィールドワーク」にほっぽり出されたタチの孤独感が並大抵のものでなかったことは、幾つかの評伝が伝えているところです。
ところでこの作品には、ユロ氏にも「らしくない」ところがあります。従来だと、その気はないのに他人を困らすのが得意だったはずのユロ氏が、本作では困る側にまわっています。あれだけ不器用だったはずのユロ氏が商業デザイナーの職をこなし、車のトラブル処理にあたっています。しかもラストではマリア嬢と相合傘ではありませんか(俯瞰ショットであれですからほとんど「結婚」の暗示です)。ユロともあろう者が……
実際、現実的にもユロが映画に登場するのはこれが最後ですから、いかにも拙速とはいえ、これはタチが退場するユロにたむけた「はなむけ」だった——というのが大方の見解ですが、筆者は別の仮説を考えております。
タチはユロ氏が疎ましくて仕方なかった、より正確には大衆がユロにだけ熱狂することが不満だった。これは映画史的に有名な事実です。ゆえに映画作家はユロの存在感を徐々に消し、『プレイタイム』では群集のなかに埋没させる寸前までいきました。
しかしそんなことにこだわっていると次作が作れないので、タチはやむなくユロを需要に応じて再登板させた——まあ、現実的にはそんな事情だったとされています。
しかしアルトラ社のユロ氏は、プラスタック社で左遷された、あのユロ氏と同一人物なのでしょうか。そうではないし、そうである必要もなかった。少なくともジャック・タチはそんな整合性をさして気にかけてはいなかったはずです。
なぜならユロ氏とは一度は脇役に、one of themに降格させた登場人物です。本来なら脇役であるキャラクターを主役に据え、本編とは別視点で組み立て直された映画を「スピンオフ作品」といいます。タチはこの作品を、自分の意識としてはユロ氏のスピンオフ映画として撮ったのではないでしょうか。
『プレイタイム』には目立たない本物のユロのほか、偽ユロがたくさん登場します。どこかにユロ氏の双子の兄弟も混ざっていたのかも知れません。つまりもっと言えば、『トラフィック』のユロ氏は、「ぼくの伯父さん」のそのまた兄か弟なのではないでしょうか。
そうであるとしたなら、タチは気楽なもんです。別人のように仕事ができようと、しっかりしていようと、女性にもてようと、結婚しようと、どうぞご勝手に。似ているところは多々あるにせよ、別人なのですから。
あれほど唐突にマリア嬢と懇ろになるのは、とって付けたようで不自然だという批判は、ですから無効です。そしてこの特異なロードムービーで唯一ロードムービーの定型を踏まえている部分があるとすれば、それは旅するマリアの成長と、恋とその成就にほかなりません。
そして本物のユロは……
まだどこかにひっそりと生息しているのかも……
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*Blu-rayとDVDでは内容・価格が異なりますのでご注意ください。
なお本稿では、あくまで[日本版Blu-ray]のほうを扱っています。
(佐々木秀一/執筆)
〈追記〉
2015年2月、「トラフィック」単品の
Blu-ray&
DVDも発売されました。
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