連載第6回 タチの一番弟子(ピエール・エテックス ①邂逅篇)ジャック・タチに師匠はいませんが、弟子筋にあたる人物は何人か存在します。例えばジャン=クロード・カリエールやソフィー・タチシェフ。しかしカリエールはノヴェライゼーション作家に抜擢されたことが縁のいわば外弟子、ソフィーは弟子である以上に肉親であるという点がそれぞれ正統感をやや弱めています。
直系の一番弟子という称号に誰が見てもふさわしいのは、やはりピエール・エテックスでしょう。なにしろエテックスはタチの製作会社スペクタ・フィルム社に一時期在籍すらしていたのですから立派な内弟子です。
というわけで、ここから数回エテックスを扱いますが、エテックス氏はいまや巨匠であり、その全貌を過不足なく紹介することなど筆者の浅学には不可能なので、あくまでタチとの接点をアバウトに描くのみであることをあらかじめお断わりしておきます。

*映画作家、俳優、道化師、ギャグ作家、手品師、イラストレーターとマルチな才能をもつエテックス
~ピエール・エテックス~
(Pierre Étaix/1928-)
1928年にフランス中央部ロアンヌに生まれたエテックスは、14歳で地元の名匠に師事してステンドグラスの技法とグラフィックデザインを学びはじめます。いっぽうでかれは、5歳の頃から道化師とサーカスの世界に憧れ、アマチュア芝居に参加するような少年でもありました。
ガラス工芸の見習い修行を終えた後、1953年段階ですでに妻子がいたエテックスは諷刺雑誌にユーモア漫画を寄稿し生計を立てていました。同年に封切られた
『ぼくの伯父さんの休暇』を観たエテックスは「それまでの喜劇映画とは一線を画す、むしろミュージックホールやサーカスの香りのする」この作品に魅了されます。
翌年、そのジャック・タチが出演するラジオを聴いたエテックスは意を決します。タチはサーカスを話題にしたうえ、イラスト画家や作家カミ(『ルーフォック・オルメス』)についても触れ、「映画作りの仕事では、イラストを描ける人が有利」と語っていたのです。
サーカス芸人になるという自分の夢についてこの人物に意見を訊いてみたいと、エテックスはタチに手紙を送ります。「当方は役者、演出家、舞台美術家。一度是非お会いいただきたく…」。1954年2月3日のことでした。

*エテックスによるデザイン画。
曲折を経て、8月8日に最初の面談。エテックスはロアンヌから長距離トラックに便乗して上京していました。夕方の6時、パンティエーヴル通りの自宅で、エテックスの自己紹介が済むとジャック・タチは口火を切りました。
「あなたは役者になりたいのですか」
エテックスがかぶりを振ると、それは結構、さもないと、あれは最低の商売ですよと言わねばならぬところでした、とタチは反応した。
それでは何がやりたいのと訊かれたエテックスがサーカスへの夢を語ると、タチは「あれは一種の閉鎖社会で、外部の人間が入りこむことなど不可能です」と即座に却下、自分の体験もまじえて懇々と諦めるよう諭された。
梨園への幻想を砕かれた形の若者に、タチは映画には興味がないのかと尋ねた。正直に、映画の製作については何も知らないと答えたエテックスは「でも、あなたの映画の端役に使ってもらえるのならとても嬉しいのですが。なぜなら…」とタチ作品への賛嘆を語った。
じゃあ、あなたにはどんなことができるの、と返してきたタチは、エテックスの持参していた書類鞄にふと目を留めます。
そこにはイラスト作品が100点ほど詰めこんでありました。タチは1枚1枚じっくりと眺め、ときどき「こういうイラストを描くことが好きなの?」とか「これ、気に入っている?」と訊いてきた。観終わったタチはやおら立ち上がり、どこかに「見せたいものがあるから来てくれ」と電話を入れた。相手は秘書兼マネジメント担当のベルナール・モーリスでした。
時計の針はもうじき9時をさそうとしていました。ジャック・タチは改めて若きエテックスに語りかけた。「私のところで働きたいとやってくる若者は多いのですが、いかんせん連中には観察の才も喜劇のセンスもない。でもこのイラストには……。次回作のシナリオの仕事を私とやってみませんか。
『ぼくの伯父さん』というタイトルなのですが」
(この項つづく)
REVOIR LES FILMS DE PIERRE ETAIX... 投稿者 iletaixunefois *エテックスとカリエール。エテックスにとっては深刻な自作の上映権問題まで笑いのネタにしてしまう二人の巨匠!
(佐々木秀一/執筆)
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